2011年 05月 13日
自殺的孤独死 |
上原美優さんが、亡くなったそうだ。
前回、「死とは何か?」というテーマでブログを書き、少なからずその余韻を引きずっていたこともあり、彼女の死と出会った際、遠い幼馴染みのように感じた。
彼女の死は、厳密に言って、「孤独死」に「過ぎなかった」のではないか、と思う。
過ぎなかった、という点はいかにも重要で、彼女が主体として選び取った自殺という手段が、結果として、彼女の全人生と均等に釣り合うようなレベルまでは高揚せず、孤独死という自分の手の及ばぬ大きな運命の檻の中に回収されてしまった感の方が、強いのである。
言い換えれば、運命的視野で見ると彼女は孤独死であり、その孤独死の結果は、へんな言い方だが、不幸さを象徴するようなものであれば、自殺でなくてもよかったようにも思う。
彼女のことは、当然、僕は何も知らない。
けれども、彼女は、何を差し置いても、「不幸」に見える。とても、とても、「不幸」に見える。
なぜなら、彼女は、幸福になることに対して、固執していたからである。その性急さが、逆説的に、彼女を不幸に見せていたのである。
そして、幸福を勝ち取るために選んだ方法――例えば自己暴露本――が、運命側からことごとく「汚い」と毛嫌いされた。彼女が正解だと思って取った選択肢は、ことごとく、運命的に真逆の結果へと吸い込まれていった感が強い。
彼女が生前よく「早く結婚したい。」とか、「家族が欲しい。」と口にしていたそうである。
微笑しながらの発言だったゆえ、誰も深刻には取らなかっただろうが、そこには何かとりつかれているかのような一途さが垣間見えていたはずだ。
彼女は、永続的な愛と、恒久的な豊かな生活、この二つを手に入れることに、追い詰められていたと形容してもいいほど、固執していた。それは、自分の生い立ちから雲壌した悪い運命を断ち切ることをも意味していたのである。
しかし、その運命の変え方や、努力の方法自体が、運命側から嫌われてしまったのだ。
彼女はしばしば即物的に、それらを手に入れようとした。いわば、自分の醜い部分の切り売りである。それによって、彼女は、幸福になるどころか、ずたずたに傷つき、自己矛盾がひどくなる一方だったことだろう。それも含めて、彼女は、不幸であったように思う。
とどめ。彼女は、人に恵まれていなかったのではないか。
確かに、しばしの憩いとしての恋人も、周囲にはいたことだろう。しかし、彼女の運命を断ち切り、根本から変えるほどの「他者」とは出会えず、類は類を呼ぶの例えの通り、断ち切りたい自己の運命によく似た連中しか自分の周りに集まらなかったのではないか。それは、本当に、不幸である。
こうして彼女のことを書きながら、つくづく思うのは、もし、彼女の傍に有能なスポークスマンが一人いたならば、どれだけいい運気が流れ込んでいたことだろう、ということだ。彼女をうまく弁護してやれる人がいなかったのだろうか、と悔やまれる。
それにしても、彼女の自殺に関しての、芸能界の反応は、相変わらずおかしいと思う。誰一人、彼女の自殺という事実に向き合わず、もう「生前の思い出」を話し出す始末だ。芸能界は、表層的な生の世界だから、死という違和感に対して、どう向き合っていいのか、まったくわからないのだろう。芸能界や、テレビメディアにとって、「自殺」は、隠したがるコンプレックスなのではないか、と思えて仕方がない。
世間は、人の精神の暗部に目をふさがず、当たり前のこととして常識化し、民主化し、意識変革をするべきである。
人が病んでいることは、もはや当たり前の常識なのだ。
前回、「死とは何か?」というテーマでブログを書き、少なからずその余韻を引きずっていたこともあり、彼女の死と出会った際、遠い幼馴染みのように感じた。
彼女の死は、厳密に言って、「孤独死」に「過ぎなかった」のではないか、と思う。
過ぎなかった、という点はいかにも重要で、彼女が主体として選び取った自殺という手段が、結果として、彼女の全人生と均等に釣り合うようなレベルまでは高揚せず、孤独死という自分の手の及ばぬ大きな運命の檻の中に回収されてしまった感の方が、強いのである。
言い換えれば、運命的視野で見ると彼女は孤独死であり、その孤独死の結果は、へんな言い方だが、不幸さを象徴するようなものであれば、自殺でなくてもよかったようにも思う。
彼女のことは、当然、僕は何も知らない。
けれども、彼女は、何を差し置いても、「不幸」に見える。とても、とても、「不幸」に見える。
なぜなら、彼女は、幸福になることに対して、固執していたからである。その性急さが、逆説的に、彼女を不幸に見せていたのである。
そして、幸福を勝ち取るために選んだ方法――例えば自己暴露本――が、運命側からことごとく「汚い」と毛嫌いされた。彼女が正解だと思って取った選択肢は、ことごとく、運命的に真逆の結果へと吸い込まれていった感が強い。
彼女が生前よく「早く結婚したい。」とか、「家族が欲しい。」と口にしていたそうである。
微笑しながらの発言だったゆえ、誰も深刻には取らなかっただろうが、そこには何かとりつかれているかのような一途さが垣間見えていたはずだ。
彼女は、永続的な愛と、恒久的な豊かな生活、この二つを手に入れることに、追い詰められていたと形容してもいいほど、固執していた。それは、自分の生い立ちから雲壌した悪い運命を断ち切ることをも意味していたのである。
しかし、その運命の変え方や、努力の方法自体が、運命側から嫌われてしまったのだ。
彼女はしばしば即物的に、それらを手に入れようとした。いわば、自分の醜い部分の切り売りである。それによって、彼女は、幸福になるどころか、ずたずたに傷つき、自己矛盾がひどくなる一方だったことだろう。それも含めて、彼女は、不幸であったように思う。
とどめ。彼女は、人に恵まれていなかったのではないか。
確かに、しばしの憩いとしての恋人も、周囲にはいたことだろう。しかし、彼女の運命を断ち切り、根本から変えるほどの「他者」とは出会えず、類は類を呼ぶの例えの通り、断ち切りたい自己の運命によく似た連中しか自分の周りに集まらなかったのではないか。それは、本当に、不幸である。
こうして彼女のことを書きながら、つくづく思うのは、もし、彼女の傍に有能なスポークスマンが一人いたならば、どれだけいい運気が流れ込んでいたことだろう、ということだ。彼女をうまく弁護してやれる人がいなかったのだろうか、と悔やまれる。
それにしても、彼女の自殺に関しての、芸能界の反応は、相変わらずおかしいと思う。誰一人、彼女の自殺という事実に向き合わず、もう「生前の思い出」を話し出す始末だ。芸能界は、表層的な生の世界だから、死という違和感に対して、どう向き合っていいのか、まったくわからないのだろう。芸能界や、テレビメディアにとって、「自殺」は、隠したがるコンプレックスなのではないか、と思えて仕方がない。
世間は、人の精神の暗部に目をふさがず、当たり前のこととして常識化し、民主化し、意識変革をするべきである。
人が病んでいることは、もはや当たり前の常識なのだ。
by boku-watashi
| 2011-05-13 00:36
| エッセイ