2011年 10月 02日
神聖かまってちゃんについて |
10月2日、MJ(ミュージックジャパン)の神聖かまってちゃんのパフォーマンスを見た。
神聖かまってちゃんがテレビに出演するのは今回で三回目である(地上波で、しかも、ほぼゴールデンタイムで、という条件を加えると、二回目である)。そうして、神聖かまってちゃんがテレビ出演する度に、そのパフォーマンスの過激さが問題視される。しかし、この「過激さ」という表現は、問題をすり替える格好の遁辞である。実際は、神聖かまってちゃんがテレビ出演すればするほど、このすり替えの「評価」が成立しなくなってきている。それほどうすら寒く、上滑りしているのだ。これはつまり、根本的に、何かを勘違いしたまま事が進行しているということなのだろう。
神聖かまってちゃんは、「キチガイ的パフォーマンス」ばかり先行させているという声を聞くが、そうではない。実際は、公共の場ではそういった「キチガイ的パフォーマンス」しか「価値」にならないのだ。つまり、後にも先にも、ミュージシャンとしてではなく、パフォーマーとして登場し続けることを義務づけられたようなものなのだ。無論、もともとは無意識的外見であった「キチガイ的パフォーマンス」を、今度は社会的強度をもって「維持」しなければならない。そして、結果として、それは達成されていない。すべて中途半端で失敗していると言っていいだろう。
こういう事態に至ったのは、の子の、「公共性」に対してはめちゃくちゃなパフォーマンスをすればよい、という安易な勘違いに端を発しているのは明らかである。今のやり方は、「ミュージシャンとしては偽者です」と積極的に証明するためにテレビに出演しているようなものである。その倒錯的欲求のために、自ら「音楽」である必要性すら捨てている。これは笑えない倒錯である。の子が問題を提議したり、メッセージを言ったり、話題を振りまいたりするたびに、笑えないほどうすら寒いのは、視聴者の誰もの子のことを価値ある存在だと思っていないというすれ違いにある。確かに、何かが行き過ぎているのだ。これはの子の行為はもとより、その行為を受け取る側の反応も考慮に入れなければならないのではないか。普通、こんな非公共的な行為をすれば、積極的な批判やクレームが飛び交い、公共性から排除しようと考えそうなものである。が、の子の場合に関しては、なぜか、一般人は「黙殺」している人が多いのである。いわば、見て見ぬふりである。無為に公共の場と時間を使用する圧倒的な非公共性、それに対して(バンド内も含めて)黙殺的な扱いをする周囲の反応、という二重の非公共性に、お茶の間は心底ぞっとしているのだ。
先ほども少し触れたように、「キチガイ的パフォーマンス」という「価値」のパッケージが存在することもまた事実である。NHKも、神聖かまってちゃん本人たちも、この枠組みに納得した上で、そのパッケージに収まるように振舞っている。問題は「キチガイ」だということではない。その「キチガイ」の強度が、放送されるレベルに達していないという、「商品価値」の話なのだ。
テレビとは、大衆性と公共性が同居する場であるが、そのどちらにも共通するのがある一定の「価値」の体系(強度)である。テレビにおける一定の放送倫理とは、実利的な意義だけを取り出して言えば、一定の放送価値のことをさすと言ってもいいだろう。その放送価値の体系(強度)が、小市民に親しまれた安価なものにせよ(大衆性)、業界内で実力を認められたものであろうと(公共性)、そこに放送価値としてパッケージが見出されれば、テレビ側としてはそれでいいのだ。アイドルやk-popが出演できるのは、やはり、その音楽性の体系(強度)や、パフォーマンスの体系(強度)や、それらを創出する産業構造の体系(強度)などに、何らかの価値の体系(強度)が見出されているからだ。決して「いい音楽だから」はテレビ出演の理由にならない。逆に、いい音楽でなくても、「いい音楽ではない」という価値にある一定の体系(強度)が見出されれば、商品として売り出せるのである。
繰り返し言うが、神聖かまってちゃんは、テレビにおいては、キチガイ的パフォーマンスが放送価値であり、その点において価値の体系(強度)を構築していく以外にないのだ。そして、その一点においても、彼らは放送価値を示せなかった。仮にもし、アンモラルなことをするにしても、体系だった(強度のある)アンモラルなことをするべきだったのだ。そうしなければ、テレビを脱構築できたとは言えないのだ。神聖かまってちゃんは、放送価値に「反して」いるのではなく、そこに「達して」いないのだ。「対立」すら出来ていない内容を、「超越」したと錯覚してしまう信者たちは哀れである。
しかしながら、周囲の人間はの子をどこまで甘えさせるのか、という問題は深刻である。これは、こういうテレビ出演が続けば続くほど、残酷なまでに露呈していき、深刻化していくことだろう。なぜ、こんな社会的未熟児を黙って見て見ぬふりをしているのか、視聴者は末恐ろしくなってくるに違いない。そして、その顛末に、社会内における父性と母性の力学の顛末を見るに違いない。曰く、このまま母性の目によって甘やかすことが過ぎれば、彼は、未熟なまま、成長しないまま、孤立した形で完結してしまうだろう。逆に、父性の目によって、彼に厳しく接し、鍛え上げようとしたら、どうなるだろうか。そう。自殺するかもしれないのである。そういった危うさから、の子をめぐるバンド内の態度は、盲目になりきってあげるという母性的なものが続いている。なぜ、そこまでするのだろうか?
それは、の子の人生の顛末に、自分たち世代の抱える問題の顛末を重ねてみているからに他ならない。言わば、彼らの命運も、実はの子にかかっているのである。彼を生き延びさせられるか、それとも、死なせてしまうか、周囲の人間は、一種「時代」に試されているとも言えよう。の子を生かすも殺すも、実はすべて周囲の他者にかかっている。生かすのか、殺すのか、それとも黙殺するのか。その選択は、これからテレビ出演があるたびに、立ち会わなければならない「時代」の選択なのである。
神聖かまってちゃんがテレビに出演するのは今回で三回目である(地上波で、しかも、ほぼゴールデンタイムで、という条件を加えると、二回目である)。そうして、神聖かまってちゃんがテレビ出演する度に、そのパフォーマンスの過激さが問題視される。しかし、この「過激さ」という表現は、問題をすり替える格好の遁辞である。実際は、神聖かまってちゃんがテレビ出演すればするほど、このすり替えの「評価」が成立しなくなってきている。それほどうすら寒く、上滑りしているのだ。これはつまり、根本的に、何かを勘違いしたまま事が進行しているということなのだろう。
神聖かまってちゃんは、「キチガイ的パフォーマンス」ばかり先行させているという声を聞くが、そうではない。実際は、公共の場ではそういった「キチガイ的パフォーマンス」しか「価値」にならないのだ。つまり、後にも先にも、ミュージシャンとしてではなく、パフォーマーとして登場し続けることを義務づけられたようなものなのだ。無論、もともとは無意識的外見であった「キチガイ的パフォーマンス」を、今度は社会的強度をもって「維持」しなければならない。そして、結果として、それは達成されていない。すべて中途半端で失敗していると言っていいだろう。
こういう事態に至ったのは、の子の、「公共性」に対してはめちゃくちゃなパフォーマンスをすればよい、という安易な勘違いに端を発しているのは明らかである。今のやり方は、「ミュージシャンとしては偽者です」と積極的に証明するためにテレビに出演しているようなものである。その倒錯的欲求のために、自ら「音楽」である必要性すら捨てている。これは笑えない倒錯である。の子が問題を提議したり、メッセージを言ったり、話題を振りまいたりするたびに、笑えないほどうすら寒いのは、視聴者の誰もの子のことを価値ある存在だと思っていないというすれ違いにある。確かに、何かが行き過ぎているのだ。これはの子の行為はもとより、その行為を受け取る側の反応も考慮に入れなければならないのではないか。普通、こんな非公共的な行為をすれば、積極的な批判やクレームが飛び交い、公共性から排除しようと考えそうなものである。が、の子の場合に関しては、なぜか、一般人は「黙殺」している人が多いのである。いわば、見て見ぬふりである。無為に公共の場と時間を使用する圧倒的な非公共性、それに対して(バンド内も含めて)黙殺的な扱いをする周囲の反応、という二重の非公共性に、お茶の間は心底ぞっとしているのだ。
先ほども少し触れたように、「キチガイ的パフォーマンス」という「価値」のパッケージが存在することもまた事実である。NHKも、神聖かまってちゃん本人たちも、この枠組みに納得した上で、そのパッケージに収まるように振舞っている。問題は「キチガイ」だということではない。その「キチガイ」の強度が、放送されるレベルに達していないという、「商品価値」の話なのだ。
テレビとは、大衆性と公共性が同居する場であるが、そのどちらにも共通するのがある一定の「価値」の体系(強度)である。テレビにおける一定の放送倫理とは、実利的な意義だけを取り出して言えば、一定の放送価値のことをさすと言ってもいいだろう。その放送価値の体系(強度)が、小市民に親しまれた安価なものにせよ(大衆性)、業界内で実力を認められたものであろうと(公共性)、そこに放送価値としてパッケージが見出されれば、テレビ側としてはそれでいいのだ。アイドルやk-popが出演できるのは、やはり、その音楽性の体系(強度)や、パフォーマンスの体系(強度)や、それらを創出する産業構造の体系(強度)などに、何らかの価値の体系(強度)が見出されているからだ。決して「いい音楽だから」はテレビ出演の理由にならない。逆に、いい音楽でなくても、「いい音楽ではない」という価値にある一定の体系(強度)が見出されれば、商品として売り出せるのである。
繰り返し言うが、神聖かまってちゃんは、テレビにおいては、キチガイ的パフォーマンスが放送価値であり、その点において価値の体系(強度)を構築していく以外にないのだ。そして、その一点においても、彼らは放送価値を示せなかった。仮にもし、アンモラルなことをするにしても、体系だった(強度のある)アンモラルなことをするべきだったのだ。そうしなければ、テレビを脱構築できたとは言えないのだ。神聖かまってちゃんは、放送価値に「反して」いるのではなく、そこに「達して」いないのだ。「対立」すら出来ていない内容を、「超越」したと錯覚してしまう信者たちは哀れである。
しかしながら、周囲の人間はの子をどこまで甘えさせるのか、という問題は深刻である。これは、こういうテレビ出演が続けば続くほど、残酷なまでに露呈していき、深刻化していくことだろう。なぜ、こんな社会的未熟児を黙って見て見ぬふりをしているのか、視聴者は末恐ろしくなってくるに違いない。そして、その顛末に、社会内における父性と母性の力学の顛末を見るに違いない。曰く、このまま母性の目によって甘やかすことが過ぎれば、彼は、未熟なまま、成長しないまま、孤立した形で完結してしまうだろう。逆に、父性の目によって、彼に厳しく接し、鍛え上げようとしたら、どうなるだろうか。そう。自殺するかもしれないのである。そういった危うさから、の子をめぐるバンド内の態度は、盲目になりきってあげるという母性的なものが続いている。なぜ、そこまでするのだろうか?
それは、の子の人生の顛末に、自分たち世代の抱える問題の顛末を重ねてみているからに他ならない。言わば、彼らの命運も、実はの子にかかっているのである。彼を生き延びさせられるか、それとも、死なせてしまうか、周囲の人間は、一種「時代」に試されているとも言えよう。の子を生かすも殺すも、実はすべて周囲の他者にかかっている。生かすのか、殺すのか、それとも黙殺するのか。その選択は、これからテレビ出演があるたびに、立ち会わなければならない「時代」の選択なのである。
by boku-watashi
| 2011-10-02 23:07
| エッセイ