2012年 01月 21日
ゼノギアス論 |
ゼノギアスというゲームは、内容面からいえば、十分に正しく古びきったゲームで、
現在(2012年)、言説的存在としても、その役割は十分に果たしきったかに思われている。
しかし、ゼノギアスには、ある「謎」がくっきりと残っている。
多くの識者によって語られてきたゼノギアスだが、この「謎」については、うまく取り出されることはなかった。
すでに懐古的な額縁に収まった今、この「謎」は、さらに取り出しにくくなっているのだろう。
また、すでに言説的存在としての意義が小さくなった今、その「謎」自体の意義もまた小さくなっているのであろう。
だから、ここから先は、本当に興味のある人だけが読めばよい。
しかし、それはその「謎」がある程度の時間の経過を必要としたことを意味しないし、
その「謎」自体が特権的であることも意味しない。
ところで、ゼノギアスというゲームを語る際、大前提として押さえておかなければならない点がある。
それはゼノギアスを語ること自体に潜む「恥ずかしさ」を無視してはならない、ということだ。
これは、ゲームというメディアが持つ「文化階級」にまつわる重要な問題なのであり、
ゼノギアスを大きな文化的コンテクスト上で語る際、しばしば隠蔽され、思惟を免除されてきた部分でもある。
この「恥ずかしさ」にこそ、ゼノギアスの「謎」を解くヒントがあるのにも関わらず、である。
ただ、この「恥ずかしさ」は、必ずしも「謎」自体に直結しているわけではない。また、この「恥ずかしさ」が、ある媒介性を持ち、「謎」を浮かび上がらせているわけでもない。
むしろ、この「恥ずかしさ」と「謎」は、関係性があるべきなのに、まったくの無関係であるところにこそ、ヒントがある。
批評家の柄谷行人さんの用語に、「個別性」と「単独性」というものがある。
「個別性」とは、一般の中の特殊のことで、例を出せば、「私」のことであるという。
例えば、今、僕が「私」という主語で何かを語るとき、それは「私」という「一般」の中の「特殊」例とみなされる。しかし、それは特別な性質ではない。ありきたりな性質をもっている。
反対に、「単独性」とは、「この私」の、「私」ではなく、「この」のことで、意識を傾けているそれ自体のことを指すという。話ここにおいて、もはや性質は問われない。その性質がいかにありふれていようと、特殊なものであろうと、取替えが不可能であるという点において、無関係である。しかし、「この」という「単独性」について積極的に語るということは、不可能である。その地点で語ってしまえば、結局、一般-特殊の一例としての「私」を語ることと、その「私」について言及している「私について」の一般-特殊の一例を再生産するだけの不毛に陥る。
『探求Ⅱ』において、これは、神性と人性、または貨幣のアナロジーとして語られるのだが、そんな神経を消耗する脱線をしている場合ではない。
ゼノギアスというゲームは、単体で取り出したとき、別段、革新的なゲームではない。
いわば、ゼノギアスの「個別性」に注目しても、何も明らかにしたことにはならない。
スクウェアという「一般」の中の「特殊」に過ぎない。
当時の「スクウェア黄金期」の一連の作品体系の中の一作として、実にありきたりな作品ですらある。そのころの周辺作品、例えば、FF7や、チョコボの不思議なダンジョンや、サガフロンティアなどと見比べてみるがいい。その立体感覚やエフェクトの種類などのフォーマットの類似性を見出すのは、容易な仕事である。
ゆえに、真に問題なのは、ゼノギアスのもつ、「この」性、つまり、「単独性」とは何かを明らかにすることだろう。
では、ゼノギアスの「単独性」とは何か?
僕はここで、ポストモダンの解説をしたいわけではない。
が、やはり、ゼノギアスを語る上で、多少その意味も押さえておかなければならない。
ここで使用する意味でのポストモダンとは、東浩之という人の著書『動物化するポストモダン』に大体載っているから、読むといい。薄いわりには、隙のない本である。
ゼノギアスは、フェイクとしての「大きな物語」と、「データベース」の二つの層が、きれいに分裂したまま、同居している作品である。つまり、きれいに初期のポストモダンを反映している作品なのである。
ゼノギアスの「恥ずかしさ」の源流はここにある。つまり、現実世界からはまったく要求されていない、フェイクとしての「大きな物語」を、本来の「大きな物語」の欠如の穴埋めとして、大真面目に語っているのだ。
この点を考慮すれば、やはりエヴァよりは、ガンダムに近い構造なのである。
そして、ほとんどのユーザーが、その「大きな物語」のあまりに大真面目な語り口に、置いてけぼりを食らっていた、というのが偽りなき実情である。
特に僕は1985年生まれで、そんなフェイクとしての「大きな物語」すら必要としていない世代であるから、ゼノギアスの物語自体にあまり関心がない。
問題は他にある。
実は、僕たちは、ずっとその問題と目が合っていた。しかし、「この私」を積極的に語ることができないように、積極的にそれを語ることができなかったのである。
再び、問う。
ゼノギアスの「単独性」とは何か?
理解をよりよくしてみるために、ここに「存在論」と「認識論」というタームを用意してみよう。
「存在論」とは、「いかにして存在しているか」を問うことで、
「認識論」とは、「いかにして認識しているのか」を問うことで、そう、考えてみれば、両者は切っても切り離せない関係であることがわかるだろう。
「存在論」を、ゲーム世界に視線を移して考えてみると、「世界がいかにして存在しているか」を疑わせないことが、名作の条件の一つであることは、それこそ誰も疑わないことだろう。
では、「認識論」の方は、つまり、「いかにして認識しているのか」の方はどうだろう。
僕たちは、ゲームをプレイ中に、「これはゲーム世界である」と完全に認識する。これは普通だ。
しかし、「認識論」の方は、これでは終わらない。
「これはゲーム世界に過ぎない」という認識が存在するからである。
「これはゲーム世界に過ぎない」という認識と、「これはゲーム世界である」という認識は、当然、質的に違う。
繰り返すまでもないが、「これはゲーム世界に過ぎない」と思わせてしまうことの裏には、「存在論」の破綻が関係している。
先述のとおり、ゼノギアスは、「大きな物語」と「データベース」が完全に分離しているゲームである。言い方を返れば、「存在論」と、「認識論」が完全に分離しているゲームである。
この分裂は、「これはゲーム世界に過ぎない」という認識を可能にしてしまう次元を成立させてしまうだけではなく、さらに一歩進んで、その「認識論」の根拠であるユーザーの「自意識」そのものを映す次元すら生み出してしまう。
いわば、ゼノギアスのゲーム画面は、ユーザーの「自意識」を映す鏡にすらなる。
「認識論」についての「認識」、いわばメタ認識である。
その次元には、製作者の意図から遠ざかってしまった、第三者性がある。
この感覚こそ、ゼノギアスの「単独性」、「この」性である。
これをわかりやすく用語化すると、「デバック・ルーム感覚」と名づけられそうだ。
「デバック・ルーム感覚」とは、ゲームの楽屋裏を案内されている感覚、もしくは、プログラム段階をテストプレイしている感覚のことを指す。
仮にゼノギアスの本質をこう設定すると、さらに重要な仮説が浮かび上がってくる。
つまり、こういったプログラム段階の作品を、既製品として発表してしまったこと自体、巨大な「バグ」なのではないか、ということだ。
結論を言おう。
ゼノギアスの「謎」とは、全編を通して「バグ」っているのに、さも公的な顔をしている点にあるのだ。
歩いてはいけない場所を歩いていたり、存在してはいけない時空間にキャラが存在したりすることが、一般的な「バグ」の種類であるが、そういった「バグ」という現象に立ち会ったとき、はじめて我々はゲーム内世界が「プログラム」に過ぎないことを意識する。これは、当然のことであろう。
そういった意味で、ゼノギアスは「バグ」だらけである。
例えば、ゲーム序盤に登場する「ラハン村」を思い出してみるがいい。
ゼノギアスにおいて、あの村の存在は異質である。
なにせ、これ以降、村という単位の生活区域は出現しないのだから。これは、ゲーム内世界に照応していない点で、明らかな「バグ」である。
そういった側面での「バグ」を拡大解釈していけば、そもそも「ワールドマップ」が存在すること自体が巨大な「バグ」であることがわかるだろう。
ゼノギアスというゲーム内世界が共有しているリアリティーとは、あからさまに乖離した異質な空間がそこには広がっている。
さらに、そこでキャラを自由に操作できるという状態は、ゲーム内世界からは完全に浮いており、
ことほどさように、未完成のプログラムを客観視できるデバック・ルームにいるような感覚に陥らせるのだ。
一事が万事、この調子といってよい。
よって、DISK2が「ゲームとして完成されていない」という指摘は当たっていない。
ことほどさように、それはDISK2に限った話ではなく、DISK1からして、もはや純粋な意味での「ゲーム内世界」だけで成立しているとは言いがたいからである。
これこそが、ゼノギアスの「この」性であり、「単独性」であり、「謎」の正体である。
しかしながら、これは何もゼノギアスに限った話ではないことに気づくだろう。
例えば、同時期に発表されたFF7にも、こういった「デバック・ルーム感覚」はあるだろうし、
もしかしたら、現在のRPGにもこういった傾向は発見できるかもしれない。
「デバック・ルーム感覚」とは、ゲーム内における「世界らしさ」が崩壊することであり、俗に言う「ゲシュタルト崩壊」に属する現象だろうと考えられる。
ゆえに、例えば、「物語」と「データベース」の距離がほとんど同期しているような作品においても、プレイ中、ふと手をとめて、ずっと同じBGMがリピートされているような状態が続けば、そのゲームの「世界らしさ」は崩壊することだろう。
しかし、この「デバック・ルーム感覚」は、ゼノギアスという、ポストモダン的な作風において、最高に達していると言ってもいいのではないか、と思うのである。
最後になるが、面白い人には面白い余談がある。
うすうす感づいている人もいるだろうが、「じゃんけん」についてである。
勝つ法則はないように言われてきたけれども、僕は、ある法則を見つけたと思っている。
それは、ウィンドウの出現する位置と、じゃんけん親父の向く位置の関係にある。
ここに一定の法則がある。
試してみるといい。
現在(2012年)、言説的存在としても、その役割は十分に果たしきったかに思われている。
しかし、ゼノギアスには、ある「謎」がくっきりと残っている。
多くの識者によって語られてきたゼノギアスだが、この「謎」については、うまく取り出されることはなかった。
すでに懐古的な額縁に収まった今、この「謎」は、さらに取り出しにくくなっているのだろう。
また、すでに言説的存在としての意義が小さくなった今、その「謎」自体の意義もまた小さくなっているのであろう。
だから、ここから先は、本当に興味のある人だけが読めばよい。
しかし、それはその「謎」がある程度の時間の経過を必要としたことを意味しないし、
その「謎」自体が特権的であることも意味しない。
ところで、ゼノギアスというゲームを語る際、大前提として押さえておかなければならない点がある。
それはゼノギアスを語ること自体に潜む「恥ずかしさ」を無視してはならない、ということだ。
これは、ゲームというメディアが持つ「文化階級」にまつわる重要な問題なのであり、
ゼノギアスを大きな文化的コンテクスト上で語る際、しばしば隠蔽され、思惟を免除されてきた部分でもある。
この「恥ずかしさ」にこそ、ゼノギアスの「謎」を解くヒントがあるのにも関わらず、である。
ただ、この「恥ずかしさ」は、必ずしも「謎」自体に直結しているわけではない。また、この「恥ずかしさ」が、ある媒介性を持ち、「謎」を浮かび上がらせているわけでもない。
むしろ、この「恥ずかしさ」と「謎」は、関係性があるべきなのに、まったくの無関係であるところにこそ、ヒントがある。
批評家の柄谷行人さんの用語に、「個別性」と「単独性」というものがある。
「個別性」とは、一般の中の特殊のことで、例を出せば、「私」のことであるという。
例えば、今、僕が「私」という主語で何かを語るとき、それは「私」という「一般」の中の「特殊」例とみなされる。しかし、それは特別な性質ではない。ありきたりな性質をもっている。
反対に、「単独性」とは、「この私」の、「私」ではなく、「この」のことで、意識を傾けているそれ自体のことを指すという。話ここにおいて、もはや性質は問われない。その性質がいかにありふれていようと、特殊なものであろうと、取替えが不可能であるという点において、無関係である。しかし、「この」という「単独性」について積極的に語るということは、不可能である。その地点で語ってしまえば、結局、一般-特殊の一例としての「私」を語ることと、その「私」について言及している「私について」の一般-特殊の一例を再生産するだけの不毛に陥る。
『探求Ⅱ』において、これは、神性と人性、または貨幣のアナロジーとして語られるのだが、そんな神経を消耗する脱線をしている場合ではない。
ゼノギアスというゲームは、単体で取り出したとき、別段、革新的なゲームではない。
いわば、ゼノギアスの「個別性」に注目しても、何も明らかにしたことにはならない。
スクウェアという「一般」の中の「特殊」に過ぎない。
当時の「スクウェア黄金期」の一連の作品体系の中の一作として、実にありきたりな作品ですらある。そのころの周辺作品、例えば、FF7や、チョコボの不思議なダンジョンや、サガフロンティアなどと見比べてみるがいい。その立体感覚やエフェクトの種類などのフォーマットの類似性を見出すのは、容易な仕事である。
ゆえに、真に問題なのは、ゼノギアスのもつ、「この」性、つまり、「単独性」とは何かを明らかにすることだろう。
では、ゼノギアスの「単独性」とは何か?
僕はここで、ポストモダンの解説をしたいわけではない。
が、やはり、ゼノギアスを語る上で、多少その意味も押さえておかなければならない。
ここで使用する意味でのポストモダンとは、東浩之という人の著書『動物化するポストモダン』に大体載っているから、読むといい。薄いわりには、隙のない本である。
ゼノギアスは、フェイクとしての「大きな物語」と、「データベース」の二つの層が、きれいに分裂したまま、同居している作品である。つまり、きれいに初期のポストモダンを反映している作品なのである。
ゼノギアスの「恥ずかしさ」の源流はここにある。つまり、現実世界からはまったく要求されていない、フェイクとしての「大きな物語」を、本来の「大きな物語」の欠如の穴埋めとして、大真面目に語っているのだ。
この点を考慮すれば、やはりエヴァよりは、ガンダムに近い構造なのである。
そして、ほとんどのユーザーが、その「大きな物語」のあまりに大真面目な語り口に、置いてけぼりを食らっていた、というのが偽りなき実情である。
特に僕は1985年生まれで、そんなフェイクとしての「大きな物語」すら必要としていない世代であるから、ゼノギアスの物語自体にあまり関心がない。
問題は他にある。
実は、僕たちは、ずっとその問題と目が合っていた。しかし、「この私」を積極的に語ることができないように、積極的にそれを語ることができなかったのである。
再び、問う。
ゼノギアスの「単独性」とは何か?
理解をよりよくしてみるために、ここに「存在論」と「認識論」というタームを用意してみよう。
「存在論」とは、「いかにして存在しているか」を問うことで、
「認識論」とは、「いかにして認識しているのか」を問うことで、そう、考えてみれば、両者は切っても切り離せない関係であることがわかるだろう。
「存在論」を、ゲーム世界に視線を移して考えてみると、「世界がいかにして存在しているか」を疑わせないことが、名作の条件の一つであることは、それこそ誰も疑わないことだろう。
では、「認識論」の方は、つまり、「いかにして認識しているのか」の方はどうだろう。
僕たちは、ゲームをプレイ中に、「これはゲーム世界である」と完全に認識する。これは普通だ。
しかし、「認識論」の方は、これでは終わらない。
「これはゲーム世界に過ぎない」という認識が存在するからである。
「これはゲーム世界に過ぎない」という認識と、「これはゲーム世界である」という認識は、当然、質的に違う。
繰り返すまでもないが、「これはゲーム世界に過ぎない」と思わせてしまうことの裏には、「存在論」の破綻が関係している。
先述のとおり、ゼノギアスは、「大きな物語」と「データベース」が完全に分離しているゲームである。言い方を返れば、「存在論」と、「認識論」が完全に分離しているゲームである。
この分裂は、「これはゲーム世界に過ぎない」という認識を可能にしてしまう次元を成立させてしまうだけではなく、さらに一歩進んで、その「認識論」の根拠であるユーザーの「自意識」そのものを映す次元すら生み出してしまう。
いわば、ゼノギアスのゲーム画面は、ユーザーの「自意識」を映す鏡にすらなる。
「認識論」についての「認識」、いわばメタ認識である。
その次元には、製作者の意図から遠ざかってしまった、第三者性がある。
この感覚こそ、ゼノギアスの「単独性」、「この」性である。
これをわかりやすく用語化すると、「デバック・ルーム感覚」と名づけられそうだ。
「デバック・ルーム感覚」とは、ゲームの楽屋裏を案内されている感覚、もしくは、プログラム段階をテストプレイしている感覚のことを指す。
仮にゼノギアスの本質をこう設定すると、さらに重要な仮説が浮かび上がってくる。
つまり、こういったプログラム段階の作品を、既製品として発表してしまったこと自体、巨大な「バグ」なのではないか、ということだ。
結論を言おう。
ゼノギアスの「謎」とは、全編を通して「バグ」っているのに、さも公的な顔をしている点にあるのだ。
歩いてはいけない場所を歩いていたり、存在してはいけない時空間にキャラが存在したりすることが、一般的な「バグ」の種類であるが、そういった「バグ」という現象に立ち会ったとき、はじめて我々はゲーム内世界が「プログラム」に過ぎないことを意識する。これは、当然のことであろう。
そういった意味で、ゼノギアスは「バグ」だらけである。
例えば、ゲーム序盤に登場する「ラハン村」を思い出してみるがいい。
ゼノギアスにおいて、あの村の存在は異質である。
なにせ、これ以降、村という単位の生活区域は出現しないのだから。これは、ゲーム内世界に照応していない点で、明らかな「バグ」である。
そういった側面での「バグ」を拡大解釈していけば、そもそも「ワールドマップ」が存在すること自体が巨大な「バグ」であることがわかるだろう。
ゼノギアスというゲーム内世界が共有しているリアリティーとは、あからさまに乖離した異質な空間がそこには広がっている。
さらに、そこでキャラを自由に操作できるという状態は、ゲーム内世界からは完全に浮いており、
ことほどさように、未完成のプログラムを客観視できるデバック・ルームにいるような感覚に陥らせるのだ。
一事が万事、この調子といってよい。
よって、DISK2が「ゲームとして完成されていない」という指摘は当たっていない。
ことほどさように、それはDISK2に限った話ではなく、DISK1からして、もはや純粋な意味での「ゲーム内世界」だけで成立しているとは言いがたいからである。
これこそが、ゼノギアスの「この」性であり、「単独性」であり、「謎」の正体である。
しかしながら、これは何もゼノギアスに限った話ではないことに気づくだろう。
例えば、同時期に発表されたFF7にも、こういった「デバック・ルーム感覚」はあるだろうし、
もしかしたら、現在のRPGにもこういった傾向は発見できるかもしれない。
「デバック・ルーム感覚」とは、ゲーム内における「世界らしさ」が崩壊することであり、俗に言う「ゲシュタルト崩壊」に属する現象だろうと考えられる。
ゆえに、例えば、「物語」と「データベース」の距離がほとんど同期しているような作品においても、プレイ中、ふと手をとめて、ずっと同じBGMがリピートされているような状態が続けば、そのゲームの「世界らしさ」は崩壊することだろう。
しかし、この「デバック・ルーム感覚」は、ゼノギアスという、ポストモダン的な作風において、最高に達していると言ってもいいのではないか、と思うのである。
最後になるが、面白い人には面白い余談がある。
うすうす感づいている人もいるだろうが、「じゃんけん」についてである。
勝つ法則はないように言われてきたけれども、僕は、ある法則を見つけたと思っている。
それは、ウィンドウの出現する位置と、じゃんけん親父の向く位置の関係にある。
ここに一定の法則がある。
試してみるといい。
by boku-watashi
| 2012-01-21 18:22
| 論文