2013年 02月 06日
Rhymester『ダーティーサイエンス』批評 |
Rhymesterの新作『ダーティーサイエンス』を、Amazonでレビューした。
以下に、その全文を掲載しておく。
以下に、その全文を掲載しておく。
僕は、この新譜を聴いて、とてもがっかりしました。
おそらくもう、Rhymesterの新譜を買うことはないと思います。
絶賛している方が多いようですが、本当にRhymesterのアルバムを全部聴いてきたのか?と疑いたくなるレビューばかりで、げんなりしました。
僕はRhymesterのアルバムをすべて聴いてきた者です。
その上で言わせていただくと、『マニフェスト』を分水嶺にして、Rhymesterというグループは「完全に迷走している」と思い続けてきました。
理由は2つあります。
1つは、「楽曲らしさ」を意識しすぎていることです。
HIPHOPの基本は「ライムとブレイクビーツ」です。逆に、そのシンプルさにこそ、他の音楽にはない「中毒性」があるからです。
アルバム単位でいうと、『グレイゾーン』辺りまでは、その「HIPHOPマナー」がプラトニックに守られていた印象があります。
その上で、巧みな2MCによる「掛け合い」などで、「グルーヴ感」=「楽曲らしさ」を獲得できていました。
だから、もともとRhymesterというグループは、「ライムとブレイクビーツ」というシンプルな「素材」だけでも、「グルーヴ感」=「楽曲らしさ」を演出することができる、いわば「ファンキー」なグループだったじゃないですか? と昔ながらのファンは思うわけですよ。
でも、『マニフェスト』以降、「普通にいい曲を世に出そう」という「楽曲らしさ」の意識過剰ゆえでしょう、そういった「ファンキーさ」は徐々に失われていきましたよね。
特に、もともと身分不相応のメロディアスな楽曲たちには、むしろ「痛々しさ」しか感じませんでした。
今作の「It's A NEW Day」なんかは、特に、ひどい、と思いました。
なにがひどいって、その「楽曲らしさ」の「中途半端さ」がひどいんです。
すごく良い曲でもなく、すごく悪い曲でもない。
ともかく、
そんな具合に、Rhymesterが「楽曲らしさ」を追求していくうちに、ある一つのことが浮かび上がってきたように思います。
それは、宇多丸さんの四角四面なラップが浮いている、ということです。
極論をいえば、Rhymesterの曲がどんどん「楽曲らしく」なっていくにつれて、宇多丸さんが「ミュージシャンではなく見えてくる」といいますかね。
一方のmummy-Dさんの方は、もう「エモーショナル」のごり押しで、いわば「ラップ歌唱」に近づいているわけです。
だけど、宇多丸さんだけは、常にバックトゥーザベーシックな基本に忠実なラップを乗せているので、曲中、宇多丸さんのラップが聴こえてくると、それこそ「楽曲らしさ」が崩壊し、楽曲として異質な空気にすらなってしまっているわけです。
2つ目は、『マニフェスト』以降のアルバムに共通して指摘できることですけど、
無理に「エモーショナル」であろうとしている、「エモーショナル」であれば押し切れる、と思っているところが目立ちすぎている点です。
この点に、「違和感」を抱かない人は、むしろファンじゃないんじゃないですかね? とさえ思っているのですが、どうなんでしょう?
たとえば、『エゴトピア』を聴いたあと、今作を聴くと、絶対に「違和感」を感じるじゃないですか。
それを、誰も議題に持ち出さないのは、なぜなんでしょうかね?
1つ目と同じような結論になります。
そもそもRhymesterっていうグループは、そんな熱情むき出しのグループじゃなかったんですよ。
むしろ、そういう「エモーショナル」なものを、ダウナーに、ユーモラスに、いわば茶化すような「お茶目さ」があったんです。
その「お茶目さ」こそが、自ら「FG」と名乗っているとおり、「ファンキーさ」ということでしょうよ。
僕はそういうグループとしてRhymesterを認識してきましたし、そういうグループとしてRhymesterのことが好きだったので、今作を聴いて、「ああ、もう付き合いきれないな」と思ったわけです。
あまり参考にはならないレビューになってしまいましたが、確実に「本質」はついていると思います。
買うかどうかはあなた次第です。
以上です。
by boku-watashi
| 2013-02-06 21:25
| 論文