2013年 08月 05日
風立ちぬ論 |
「大衆の人」である主人公
これまでのジブリの主人公というのは、「大衆」や「俗世間」から離れた場所に住む人が多かったように思います(勿論、そうでない主人公もいますが)。
『もののけ姫』におけるサン然り、『ハウルの動く城』のハウルやソフィー然りです。
あるいは、主人公が「大衆の人」でも、どうしても「大衆」に馴染めず、孤立するケースも多かったと思うのです。疑う人は『魔女の宅急便』を見返したらいいかもしれません。あれは、元々「大衆の人」でない女の子が、「大衆の人」になろうと努力する物語です。
「大衆」や「俗世間」への距離感。
これが宮崎アニメの一側面であることは確かです。
そして、「大衆」や「俗世間」から距離を置こうとする傾向は晩年の作になるほど色濃くなっていき、かつそれは同時に、現実世界における宮崎駿さんの立ち位置(大衆や俗世間から隔絶された世界で黙々と仕事をしている自分)を仮託したものだったのでしょう。つまり、宮崎駿さん自身が、「大衆」や「俗世間」と距離を置いてきた人とも言えるのです。
それが一転して、今作では、ただの「市井の人」として、つまり、「大衆の人」として、主人公が設定されています(とはいえ、“超”がつくほど知的エリートなので完全に「市井の人」とは言い切れませんが)。
完全に「大衆の人」の一人である主人公。
この設定の変化は、宮崎駿の映画史上、劇的な意味を持っていると思います。
登場人物の生き様=活劇的
おそらく、この設定による目的は2つあったと推察されます。
一つは、「一個人の一生は尊いのだ」というメッセージを浮き彫りにするため。
もう一つは、ただの「大衆の人」の一人でもヒロイック(英雄的)に生きることは出来る、という人間の生き方のロール・モデル(理想像)を提示することです。
しかし、見せ方を一歩間違えれば、それらの目的は達成することはできなかったでしょうし、単に「地味な映画」になっていたことでしょう。
それを回避するために宮崎駿さんは、「アニメの絵」としてカッコいいカットの連続と、テコ入れ的にバランスよく活劇的なシーンを挿入することにより、実に巧みに緊張感を保たせています。
しかし、それ以上に大きかったのは、「活劇的なシーンなどなくとも何気ない登場人物たちの言動が活劇的に楽しめる」という純アニメ的な“発見”にあります。
例を挙げれば枚挙に暇がありません。
例えば、関東大震災が発生し、同じ列車に同乗していたヒロイン菜穂子の付き人の女の人が腕の骨を折った際、二郎がすぐに持ち合わせの道具で応急処置をするシーンがあります。二郎は、なんの衒いもなく颯爽と処置した後、やはり何の拘泥もなく、颯爽と立ち去るのです。
あるいは、道端にいる母親の帰りを待つ貧乏な子供たちに、二郎は露店で売っているお菓子を買い与えます。その際の台詞が、
「これを食べなさい。買ったばかりの新品です。」
それだけなのです。余計なことは言いません。実にさっぱりしたものです。
あるいは、ヒロインの菜穂子に告白するときも、
「僕は菜穂子さんを愛しています。お父さん、お付き合いを許してください。」
と微笑で以って堂々と言うのです。
あるいは、…キスしたいときはすっと自然にキスするのです!
というように、主人公二郎をはじめ『風立ちぬ』に出てくる登場人物たちは、真っ直ぐで、素朴で、明るく、言いたいことは率直に言い、行動するときは迷いなく行動し、しかも、後腐れなくあっさりしていて、拘らず、言わば「公明正大」という言葉を絵に書いたような人たちばかりなのです。
それらを観ているだけで、胸が熱くなる人もいるのではないでしょうか。
つまり、活劇的なシーンがなくても(前述の通り実際にはあるのですが)、人間が内なるヒロイズムを持ってさえいれば、人間の言動一つ一つが活劇的に見えてくるほど輝く、ということをこの『風立ちぬ』という映画は証明したのです。
それを一言で集約すれば、「人間讃歌」といえるでしょう。それが、今までの宮崎アニメになかったような「渋み」にも繋がっているのではないでしょうか。
サン=テグジュペリ的な人間の“業”
「渋み」といえば、本来は地味に見えがちな「仕事をしているシーン」が、さもヒーローの活躍シーンの如く、生き生きと描写されていて、文字通り「活劇的な感動」を与えます。
これだけ「人が仕事をするシーン」を美しく撮った映画もないのではないでしょうか。
この映画は「人間讃歌」であると同時に「仕事讃歌」の映画でもあるのです。
というより、人生と仕事は相同関係にあり切っても切り離せないものだ、とこの映画は雄弁に語っているのです。
それは、二郎と菜穂子が同居をはじめたある日、二郎が小さな座机で製図を引いていると、病床にある菜穂子が二郎のきりっとした横顔を見ながら、
「二郎さんの仕事しているときのかお、好き。」
と呟くシーンに集約されています。
余談ですが、映画の終盤辺りを貫く雰囲気は、堀辰雄の『風立ちぬ』よりも、むしろサン=テグジュペリの『人間の土地』に影響されていると思われます。
『人間の土地』は、ご存知の通り、著者の飛行家としての実体験を描いているものですが、実は「描写」よりも、モラリスティック(道徳的)な「叙述」が大半を占めている一冊です。
その論旨を大雑把に要約しますと、人間は、「自然」(人間が超越できないもの)と対立するときにこそ、「人道的ヒロイズム」というある種の使命感を帯びることができ、真に人間らしく生きることができるのだ、というものです。その地点でこそ、「職業」の意味もわかってくるし、「愛」の意味もわかってくる、と著者は訴えています。
『風立ちぬ』の二郎も、「自然」(時代の風潮や菜穂子の不可避の死など)と対立するとき、自身に与えられた仕事が切実な意味をもった行為として「称揚」していき、同時に仕事が「称揚」されるたびに菜穂子への愛も「称揚」されていく、といった具合に、良い意味でも悪い意味でも、どんどん「人道的ヒロイズム」に没入していってしまうのです。
だからこの映画は、「仕事のために愛を犠牲にした男の話」でもありませんし、「最終的に仕事の意義も愛も失った哀れな男の話」でもありません。
むしろ、サン=テグジュペリ的な「人道的ヒロイズム」に没入していってしまう人間のどうしようもない“業”の話といえるでしょう。
宮崎駿初の若者向けアニメ?
この映画は、韓国では『戦争を賛美した映画』として非難されているようですが、勿論、これは筋違いな見方です。
なぜなら、この『風立ちぬ』において、戦争も、あるいは、関東大震災も、ある一時代の出来事に過ぎないような扱われ方をしているからです。
ことにも関東大震災のシーンに限っていえば、3.11に重ねて見る人がほとんどでしょうし、かつ、監督自身もそれを想定済みでしょうが、その描き方は決してセンチメンタルなものではありません。むしろ、(不謹慎ですが)活劇的な楽しささえ見出せるようなシーンになっています。
ことほどさように、この映画において、戦争にせよ、地震にせよ、歴史的な出来事を過大に取り扱うことは一切ありません。
それより、ある一時代の出来事に過ぎない、というクロニクルな視点が先行しています。
だからといって、重要でない、とも言っていません。
むしろ、一時代の出来事に過ぎないからこそ、そこで起こる人間の悲喜交々の営みは、儚いのであり、「生」が輝いて見えるのです。
もし仮に、地震だけを集中的に描く視線を「母性的な優しさ」と呼ぶならば、それらを通時的な歴史の過程として見つめる視線は「父性的な優しさ」ということになるのではないかと思います。
そして、後者の方がずっと哀れ深く、慈悲的だということがわかるでしょう。
ここまでの考察を僕なりにまとめるとこうなります。
この作品は、現代(主に3.11以降の世界・時代でしょうが)の様相に対する宮崎駿さんなりの誠実な回答であることはまず間違いありません。
本来、人と人の付き合い方はどうあるべきなのか。
本来、人生において仕事とはなんなのか。
本来、人の愛し方とはどういうものだったのか。
愛する人との死別に代表される人生の哀しみをどう捉えたらいいのか。
そして、それら「生」の営み自体の儚さを、永年のモチーフである“飛行機”と“風”に象徴したのが、この『風立ちぬ』という映画の本質です。
これらの問題は、実は若者の方が心に染み渡りやすいと思われます。
将来不安を含め先行き不透明な時代に生きる若者(僕だってそうです)にとって、それら思春期的な問いは、いつまで経っても切実な問いであり続ける可能性があるからです。
人付き合いがうまくいかなかったり(あるいはその意義がわからなかったり)、仕事にプライドがもてなかったり、人の愛し方がわからなくなっている若者は、この『風立ちぬ』を観ると、忘れていた人間のロール・モデル(理想像)を自身の内に思い出せるのではないかと思います。
『風立ちぬ』の意味
皆さん気になっていると思われる、タイトルの『風立ちぬ』の解釈(あるいは“風”の解釈)ですが、ざっくり言いますと、三つの意味があると思われます。
①未来の視界がぱっと開けたときの「生の活力」に溢れた一瞬。
②いわゆる「時代の風潮」などの言葉で現されるような、世界・時代の不可避の流動性。
③すべての「生の営み」が去ったあとの無常観。
①は序盤の幼年期における「夢」のシーンに、②は中盤の青年期の到る所のシーンに、③はラストシーンに通底しているように思われます。
ネタバレになりますが、この映画のラストシーンは、二郎の夢のシーンに回帰します。
夢の中には、戦争の道具に使われ大破した自作の飛行機たちの残骸が出てきます。
その儚さに感じ入っている中、二郎がふと目線を逸らすと、愛する菜穂子の幻影が笑いながら消えていきます。
草原には、相変わらず、強い風が吹いています。
これは明らかに③の意味合いが込められていますが、もう少し踏み込んで言えば、アニミズム的な思想も込められているといえます。
どういうことか。
理解を良くするために、次のようなシーンを思い浮かべればいいでしょう。
ある親しい人が死んだとします。
そして、高原に建てられたその人の墓に参った後の帰り道、ふと、その人の墓が建てられてある辺りを見やると、瞬時、さぁっと一陣の風が吹いたとする。
これは、生前の意志が死してなお現世に残っているということの暗示に違いありません。
いかかでしょうか。
以上のように、『風立ちぬ』(あるいは“風”)というモチーフには、多様な読み説き方が可能なのです。
宮崎駿の私小説
これは誰もが指摘できることでしょうが、主人公の堀越二郎の姿を追っていくと、どうしたって宮崎駿自身の姿に重なって見えてきます。
“物づくりに励む”という姿勢はもちろんのこと、二郎が製図を引いている姿は宮崎駿が絵コンテを書き込んでいる姿そのものですし、二郎が勤める会社の人々の仕事風景はそのままスタジオジブリの仕事ぶりを想起させます。
さらに、二郎の恋愛模様もそうです。
いや、恋愛模様というより、「結果的に仕事のために何かが犠牲になった」というモチーフが、実に宮崎駿らしいのです。
コクリコ坂のときにNHKで放映されたドキュメンタリー『ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗』を見ると、明らかに仕事一徹ゆえに家庭や愛情生活が疎かになっていた一時期があった、ということが読み取れます。
一口でいえば、彼は色々なことを犠牲にして、これまでの立派な仕事を為してきたのです。
さらに、最近では親しい者の死も相次いでいるそうです。
そういう事情を鑑みますと、ラストシーンである夢の中で、消えていく菜穂子に向かって、
「ありがとう。」
と言い、涙を落とす二郎の言葉には、宮崎駿さん自身のこれまで犠牲にしてきた愛する者への心情がこもっているのです。
試写会で宮崎駿さんご自身が泣かれたそうですが、以上のようなことを考えますと、それも致し方ないことなのです。
後日談
映画を観て一週間経った今、さすがに『風立ちぬ』に対する影響下からはすっかり脱しています。
それに、徐々に納得できない箇所も浮き彫りになってきました。
それでも、この『風立ちぬ』が持っているスケールを前にすると、「批評など無力である」という感覚は変わりません。
それはなぜか。
宮崎駿さん自身が『アニメ映画は子供のために作るものだ』と発言していることからもわかるように、良かれ悪しかれ、彼の仕事は後続の世代に影響を与える仕事をしています。
言い換えれば、肯定・否定を超えて、後続の世代へ「生きる力」を与えているのです。
そして、本来創作の役目とは、そういうものでなければならないはずなのです。
個人的な話になりますが、僕の創作に対する態度というのはその真逆で、「物事の本質を描けていればネガティブでも良い」というものでした。
完成度という意味ではさほど後悔してませんが、しかし、次の世代の人に対して「生きる力」を与えていない点を考えると、やはり大した仕事をしてこなかったと言わざるを得ません。
そういう自分の仕事ぶりと『風立ちぬ』を比較すると、批評どころか、恥じ入るばかりで、何も言えなくなるのです。
というわけで、自身がどれほどの仕事を為しているのか、それを反省する機会としてこの映画を観るのもまた一興なのではないでしょうか。
それでは。
これまでのジブリの主人公というのは、「大衆」や「俗世間」から離れた場所に住む人が多かったように思います(勿論、そうでない主人公もいますが)。
『もののけ姫』におけるサン然り、『ハウルの動く城』のハウルやソフィー然りです。
あるいは、主人公が「大衆の人」でも、どうしても「大衆」に馴染めず、孤立するケースも多かったと思うのです。疑う人は『魔女の宅急便』を見返したらいいかもしれません。あれは、元々「大衆の人」でない女の子が、「大衆の人」になろうと努力する物語です。
「大衆」や「俗世間」への距離感。
これが宮崎アニメの一側面であることは確かです。
そして、「大衆」や「俗世間」から距離を置こうとする傾向は晩年の作になるほど色濃くなっていき、かつそれは同時に、現実世界における宮崎駿さんの立ち位置(大衆や俗世間から隔絶された世界で黙々と仕事をしている自分)を仮託したものだったのでしょう。つまり、宮崎駿さん自身が、「大衆」や「俗世間」と距離を置いてきた人とも言えるのです。
それが一転して、今作では、ただの「市井の人」として、つまり、「大衆の人」として、主人公が設定されています(とはいえ、“超”がつくほど知的エリートなので完全に「市井の人」とは言い切れませんが)。
完全に「大衆の人」の一人である主人公。
この設定の変化は、宮崎駿の映画史上、劇的な意味を持っていると思います。
登場人物の生き様=活劇的
おそらく、この設定による目的は2つあったと推察されます。
一つは、「一個人の一生は尊いのだ」というメッセージを浮き彫りにするため。
もう一つは、ただの「大衆の人」の一人でもヒロイック(英雄的)に生きることは出来る、という人間の生き方のロール・モデル(理想像)を提示することです。
しかし、見せ方を一歩間違えれば、それらの目的は達成することはできなかったでしょうし、単に「地味な映画」になっていたことでしょう。
それを回避するために宮崎駿さんは、「アニメの絵」としてカッコいいカットの連続と、テコ入れ的にバランスよく活劇的なシーンを挿入することにより、実に巧みに緊張感を保たせています。
しかし、それ以上に大きかったのは、「活劇的なシーンなどなくとも何気ない登場人物たちの言動が活劇的に楽しめる」という純アニメ的な“発見”にあります。
例を挙げれば枚挙に暇がありません。
例えば、関東大震災が発生し、同じ列車に同乗していたヒロイン菜穂子の付き人の女の人が腕の骨を折った際、二郎がすぐに持ち合わせの道具で応急処置をするシーンがあります。二郎は、なんの衒いもなく颯爽と処置した後、やはり何の拘泥もなく、颯爽と立ち去るのです。
あるいは、道端にいる母親の帰りを待つ貧乏な子供たちに、二郎は露店で売っているお菓子を買い与えます。その際の台詞が、
「これを食べなさい。買ったばかりの新品です。」
それだけなのです。余計なことは言いません。実にさっぱりしたものです。
あるいは、ヒロインの菜穂子に告白するときも、
「僕は菜穂子さんを愛しています。お父さん、お付き合いを許してください。」
と微笑で以って堂々と言うのです。
あるいは、…キスしたいときはすっと自然にキスするのです!
というように、主人公二郎をはじめ『風立ちぬ』に出てくる登場人物たちは、真っ直ぐで、素朴で、明るく、言いたいことは率直に言い、行動するときは迷いなく行動し、しかも、後腐れなくあっさりしていて、拘らず、言わば「公明正大」という言葉を絵に書いたような人たちばかりなのです。
それらを観ているだけで、胸が熱くなる人もいるのではないでしょうか。
つまり、活劇的なシーンがなくても(前述の通り実際にはあるのですが)、人間が内なるヒロイズムを持ってさえいれば、人間の言動一つ一つが活劇的に見えてくるほど輝く、ということをこの『風立ちぬ』という映画は証明したのです。
それを一言で集約すれば、「人間讃歌」といえるでしょう。それが、今までの宮崎アニメになかったような「渋み」にも繋がっているのではないでしょうか。
サン=テグジュペリ的な人間の“業”
「渋み」といえば、本来は地味に見えがちな「仕事をしているシーン」が、さもヒーローの活躍シーンの如く、生き生きと描写されていて、文字通り「活劇的な感動」を与えます。
これだけ「人が仕事をするシーン」を美しく撮った映画もないのではないでしょうか。
この映画は「人間讃歌」であると同時に「仕事讃歌」の映画でもあるのです。
というより、人生と仕事は相同関係にあり切っても切り離せないものだ、とこの映画は雄弁に語っているのです。
それは、二郎と菜穂子が同居をはじめたある日、二郎が小さな座机で製図を引いていると、病床にある菜穂子が二郎のきりっとした横顔を見ながら、
「二郎さんの仕事しているときのかお、好き。」
と呟くシーンに集約されています。
余談ですが、映画の終盤辺りを貫く雰囲気は、堀辰雄の『風立ちぬ』よりも、むしろサン=テグジュペリの『人間の土地』に影響されていると思われます。
『人間の土地』は、ご存知の通り、著者の飛行家としての実体験を描いているものですが、実は「描写」よりも、モラリスティック(道徳的)な「叙述」が大半を占めている一冊です。
その論旨を大雑把に要約しますと、人間は、「自然」(人間が超越できないもの)と対立するときにこそ、「人道的ヒロイズム」というある種の使命感を帯びることができ、真に人間らしく生きることができるのだ、というものです。その地点でこそ、「職業」の意味もわかってくるし、「愛」の意味もわかってくる、と著者は訴えています。
『風立ちぬ』の二郎も、「自然」(時代の風潮や菜穂子の不可避の死など)と対立するとき、自身に与えられた仕事が切実な意味をもった行為として「称揚」していき、同時に仕事が「称揚」されるたびに菜穂子への愛も「称揚」されていく、といった具合に、良い意味でも悪い意味でも、どんどん「人道的ヒロイズム」に没入していってしまうのです。
だからこの映画は、「仕事のために愛を犠牲にした男の話」でもありませんし、「最終的に仕事の意義も愛も失った哀れな男の話」でもありません。
むしろ、サン=テグジュペリ的な「人道的ヒロイズム」に没入していってしまう人間のどうしようもない“業”の話といえるでしょう。
宮崎駿初の若者向けアニメ?
この映画は、韓国では『戦争を賛美した映画』として非難されているようですが、勿論、これは筋違いな見方です。
なぜなら、この『風立ちぬ』において、戦争も、あるいは、関東大震災も、ある一時代の出来事に過ぎないような扱われ方をしているからです。
ことにも関東大震災のシーンに限っていえば、3.11に重ねて見る人がほとんどでしょうし、かつ、監督自身もそれを想定済みでしょうが、その描き方は決してセンチメンタルなものではありません。むしろ、(不謹慎ですが)活劇的な楽しささえ見出せるようなシーンになっています。
ことほどさように、この映画において、戦争にせよ、地震にせよ、歴史的な出来事を過大に取り扱うことは一切ありません。
それより、ある一時代の出来事に過ぎない、というクロニクルな視点が先行しています。
だからといって、重要でない、とも言っていません。
むしろ、一時代の出来事に過ぎないからこそ、そこで起こる人間の悲喜交々の営みは、儚いのであり、「生」が輝いて見えるのです。
もし仮に、地震だけを集中的に描く視線を「母性的な優しさ」と呼ぶならば、それらを通時的な歴史の過程として見つめる視線は「父性的な優しさ」ということになるのではないかと思います。
そして、後者の方がずっと哀れ深く、慈悲的だということがわかるでしょう。
ここまでの考察を僕なりにまとめるとこうなります。
この作品は、現代(主に3.11以降の世界・時代でしょうが)の様相に対する宮崎駿さんなりの誠実な回答であることはまず間違いありません。
本来、人と人の付き合い方はどうあるべきなのか。
本来、人生において仕事とはなんなのか。
本来、人の愛し方とはどういうものだったのか。
愛する人との死別に代表される人生の哀しみをどう捉えたらいいのか。
そして、それら「生」の営み自体の儚さを、永年のモチーフである“飛行機”と“風”に象徴したのが、この『風立ちぬ』という映画の本質です。
これらの問題は、実は若者の方が心に染み渡りやすいと思われます。
将来不安を含め先行き不透明な時代に生きる若者(僕だってそうです)にとって、それら思春期的な問いは、いつまで経っても切実な問いであり続ける可能性があるからです。
人付き合いがうまくいかなかったり(あるいはその意義がわからなかったり)、仕事にプライドがもてなかったり、人の愛し方がわからなくなっている若者は、この『風立ちぬ』を観ると、忘れていた人間のロール・モデル(理想像)を自身の内に思い出せるのではないかと思います。
『風立ちぬ』の意味
皆さん気になっていると思われる、タイトルの『風立ちぬ』の解釈(あるいは“風”の解釈)ですが、ざっくり言いますと、三つの意味があると思われます。
①未来の視界がぱっと開けたときの「生の活力」に溢れた一瞬。
②いわゆる「時代の風潮」などの言葉で現されるような、世界・時代の不可避の流動性。
③すべての「生の営み」が去ったあとの無常観。
①は序盤の幼年期における「夢」のシーンに、②は中盤の青年期の到る所のシーンに、③はラストシーンに通底しているように思われます。
ネタバレになりますが、この映画のラストシーンは、二郎の夢のシーンに回帰します。
夢の中には、戦争の道具に使われ大破した自作の飛行機たちの残骸が出てきます。
その儚さに感じ入っている中、二郎がふと目線を逸らすと、愛する菜穂子の幻影が笑いながら消えていきます。
草原には、相変わらず、強い風が吹いています。
これは明らかに③の意味合いが込められていますが、もう少し踏み込んで言えば、アニミズム的な思想も込められているといえます。
どういうことか。
理解を良くするために、次のようなシーンを思い浮かべればいいでしょう。
ある親しい人が死んだとします。
そして、高原に建てられたその人の墓に参った後の帰り道、ふと、その人の墓が建てられてある辺りを見やると、瞬時、さぁっと一陣の風が吹いたとする。
これは、生前の意志が死してなお現世に残っているということの暗示に違いありません。
いかかでしょうか。
以上のように、『風立ちぬ』(あるいは“風”)というモチーフには、多様な読み説き方が可能なのです。
宮崎駿の私小説
これは誰もが指摘できることでしょうが、主人公の堀越二郎の姿を追っていくと、どうしたって宮崎駿自身の姿に重なって見えてきます。
“物づくりに励む”という姿勢はもちろんのこと、二郎が製図を引いている姿は宮崎駿が絵コンテを書き込んでいる姿そのものですし、二郎が勤める会社の人々の仕事風景はそのままスタジオジブリの仕事ぶりを想起させます。
さらに、二郎の恋愛模様もそうです。
いや、恋愛模様というより、「結果的に仕事のために何かが犠牲になった」というモチーフが、実に宮崎駿らしいのです。
コクリコ坂のときにNHKで放映されたドキュメンタリー『ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗』を見ると、明らかに仕事一徹ゆえに家庭や愛情生活が疎かになっていた一時期があった、ということが読み取れます。
一口でいえば、彼は色々なことを犠牲にして、これまでの立派な仕事を為してきたのです。
さらに、最近では親しい者の死も相次いでいるそうです。
そういう事情を鑑みますと、ラストシーンである夢の中で、消えていく菜穂子に向かって、
「ありがとう。」
と言い、涙を落とす二郎の言葉には、宮崎駿さん自身のこれまで犠牲にしてきた愛する者への心情がこもっているのです。
試写会で宮崎駿さんご自身が泣かれたそうですが、以上のようなことを考えますと、それも致し方ないことなのです。
後日談
映画を観て一週間経った今、さすがに『風立ちぬ』に対する影響下からはすっかり脱しています。
それに、徐々に納得できない箇所も浮き彫りになってきました。
それでも、この『風立ちぬ』が持っているスケールを前にすると、「批評など無力である」という感覚は変わりません。
それはなぜか。
宮崎駿さん自身が『アニメ映画は子供のために作るものだ』と発言していることからもわかるように、良かれ悪しかれ、彼の仕事は後続の世代に影響を与える仕事をしています。
言い換えれば、肯定・否定を超えて、後続の世代へ「生きる力」を与えているのです。
そして、本来創作の役目とは、そういうものでなければならないはずなのです。
個人的な話になりますが、僕の創作に対する態度というのはその真逆で、「物事の本質を描けていればネガティブでも良い」というものでした。
完成度という意味ではさほど後悔してませんが、しかし、次の世代の人に対して「生きる力」を与えていない点を考えると、やはり大した仕事をしてこなかったと言わざるを得ません。
そういう自分の仕事ぶりと『風立ちぬ』を比較すると、批評どころか、恥じ入るばかりで、何も言えなくなるのです。
というわけで、自身がどれほどの仕事を為しているのか、それを反省する機会としてこの映画を観るのもまた一興なのではないでしょうか。
それでは。
by boku-watashi
| 2013-08-05 11:07
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