2010年 08月 19日
ピューと吹く!ジャガー論 |
『ピューと吹く!ジャガー』の連載が終了するらしい。
長年のファンであった僕でさえ、「へえ、そうか」ぐらいの衝撃しか受けなかった。
どうしてであろうか。
それをちょっと考えてみたい。
そもそも、なぜ、終わるのだろうか。
僕はこう考える。
最近、この漫画は、終わる必然も、続ける必然も、等しく喪失した宙吊り状態だった。
その宙吊り状態が、「体質」として定着しつつあった。
それに真っ先に気づいたのは、ほかでもなく、読者だった。
そして、それを作者自身も敏感に感じとったのである。
そう。
この漫画ほど、読者の意向を反映してくれる、もしくは、反映の手続きを身近に感じさせてくれる漫画もなかった。
ジャガーは相互補完的であり、いわば、作者と読者のコミュニケーション遊戯の側面が強かった。
タイトルの題字を読者から募集していたのも最たる例だし、後期に至っては、ネタまで作中に反映してくれる始末だった。
そういうサービス精神の高さゆえだろうか、作品の「体質」まで、読者側に、つまり、庶民の日常そのものに近づいてきてしまった。
結果、幸か不幸か、ある程度の大衆的支持を自動的に獲得できるようになり、
はたまた、悪い面では、作者のやる気の有無や、生理的変化に至るまで、見事に作品に反映されてしまうようにまでなってしまった。
後期のジャガーは、もはや、「作者の生活のバイオリズムを体感する」漫画になっていた。
そもそも、この漫画の、週間少年ジャンプという雑誌上での意義は、どんなものだったか、思い出してみよう。
巻末という固定枠。これは、ニュース番組で例えれば「天気予報」のコーナーであろう。
天気予報とは、どんなコーナーだろうか。それまで、いくら、大量殺人やら、政治的大事件などの、一連のドラマティックなニュースが流れようが、最後の最後には、天気予報という、一種の毒消しによって、日常に目線が戻るのである。実際、どんなニュースよりも、一番等身大な、生活に身近な話題である。ジャガーは、まさに、もっとも身近な「生活事」に近いコーナーを担当していた。
ジャガーは、巻末で、あくまで「ピューと吹いた」のだ。
これは重要なモチーフである。
「笛を吹く」という行為は、小学生に代表される素朴さの象徴であり、癒すことの象徴であり、肩の力を抜かせることであり、もっと踏み込んで言えば、感傷的な風景を喚起させる装置でもあるのだ。
コミックスの表紙の絵の見事さを見ても明らかなように、「懐かしさ」の波及というのも、ジャガーの「売り」の一つだった。
ジャガーの読者は、決して、ギャグだけに誘われてこの作品を読んでいたわけではない。
絵柄や、さりげない漫画的表現に、不思議な癒しや、くすぐりや、寓意や、懐かしさを感じていたのである。
では、作品単体としては、どういう作品だったのだろうか。
ざっくり言えば、初期は、ちゃんとした起承転結を持った優等生なギャグ漫画であり、5、6ページという少ない枚数で、隙のないギャグ漫画を描けることを証明することを目的としていた。
次第に、この形式における作風が確立され、定着した。
実験的戯作やパロディも含め、この形式で出来る可能性はほぼやりつくした観が出てきた。
しばらく中期の「安定期」が続いた後、徐々に、ジャガーの作風に「体質変化」が起こり始めた。
どう変わったか、と言えば、一言で言えば、「ギャグ漫画」から、「風俗観察漫画」「生活観察漫画」へと眼目が移行していったのである。
作者自身の世代の雰囲気、会話、ファッション、それら含めた時代の雰囲気の活写、要するに、「こんな感じの時代だよね」という「ゆるい共感」を狙った作風に変化しだしたのである。
現実の生活リズムと、作品内部の生活のリズムはパラレルに同化しだした。
「漫画の中なのに生きているようなキャラクター」
というよりは、
「漫画の中なのに生活しているようなキャラクター」
とでも言うのがふさわしいような有様である。
ギャグも、あくまで会話ありきであり、その自然な流れの中の一要素として捉えられるようになっていった。
こういうギャグを織り交ぜた会話は日常的にしているだろうな、と読者に思わせる台詞回し、会話のタイミング、ギャグのはずし方など、風俗&生活観察と共に、後期ジャガーの最大の特徴である「軽み」を会得していった。
「軽み」の洗練。
それを、大半の読者は「ギャグの衰退」ととったのである。
そして、「もうやる気がない」と批判した。
もし、作品がやる気がなく見えたのであれば、それは、登場人物たちのやる気のなさであり、転じて、現実世界での若者のやる気のなさの戯画化であるのだから、評価は「うまく時代を捉えている」という、長所に向いてもおかしくなかった。
とにかく、作者は、そういう「軽み」の境地に入りつつあった。
実際、ただコンビニに行く、という過程をだらだら描いても、漫画的価値を生み出せる自信があっただろう。
ジャガーの楽しみ方も、ギャグで腹を満たしていた時期とは違う、いわば「別腹」の楽しみ方に変化していった。
「漫画的密度」はあるのに、「あっさり」しているのだ。
これを読者は「中身がない」とか「ネタ切れ」とか呼んだ。
これ以降、作者は、「手放し運転」をしだした。
どんどんれいの「散歩型漫画」になっていったのである。
ネタにあまり固執しなくなっていった。前述の通り、ネタに固執しなくても、「平均点」が取れるだけの漫画表現があったからだ。
時々、揺れ戻しのように、ストーリーものをやったり、しっかり起承転結のプロットのあるものもやったりしたが、風俗&生活観察性はますます「軽み」を帯びてきて、その「軽み」方面の可能性を、どこまで目指せるか、が目的になっていったのである。
わかりやすい「落ち」を避けだして以来、読者は、「何が正解なのか」をセンスで感じるしかなくなってきた。
笑うべき「ポイント」が、どんどん「高度」になっていった。
自然な会話の一つ一つの「さりげないうまさ」に「味を感じる」という読み方が「正解」になることが多くなった。
こういう、かなり高度な境地にある「笑い」が、読者に届いているのか、いないのか、作者自身も相当不安だったろうと思う。
実際、あまり理解されていなかった。
そして、今回の終了と相成ったわけである。
ところで、この漫画、どのように終わるのだろうか。
この漫画の隠された主題は、なんといっても「ジャガーとピヨ彦のモラトリアムな生活がどう終わるのか」という一点に集約される。
後の登場人物はどうでもいい。問題はこの二人であり、その終わらせ方なのである。
考えてみれば、ジャガーとピヨ彦の関係は奇妙である。
先生と生徒のようでもあるし、ただの親友同士のようでもある。
だが、一番本質的な見方は、「母親と子供」だと思うのである。
それは作中の二人の生活を見れば一目瞭然で、二人は肉親同士のように、お互い「依存」しあっている。
この見立てで考えれば、ピヨ彦(子供)は、いつか、ジャガー(母)から旅立つのは明らかである。
けれど、別れに際して、どちらがつらいかと言えば、明らかに、「母親」であるジャガーの方なのである。
わが子を失うつらさ。
それを内心、ふと感じ取って、ジャガーさんが、ある日、先にピヨ彦の前から忽然と消えてしまう。
そんな「最後」にして欲しいのだが、どうだろうか。
なんといっても、ジャガーさんのモデルは、明らかに「星の王子様」なのだから、そんなラストが妥当なんじゃないかしら、と思う。
ジャガーさんは、ふらりとどこからともなく、やってきたのだ。出生不明なのである(ラスト直前に明かされつつあるが)。
つまり、故郷を探している人なのであって、その手がかりが「笛」、つまり「素朴さ」であり、「気の抜けた感じ」であり、「懐かしさ」であるのだから。
ま、いまさら遅いかもしれないが。
長年のファンであった僕でさえ、「へえ、そうか」ぐらいの衝撃しか受けなかった。
どうしてであろうか。
それをちょっと考えてみたい。
そもそも、なぜ、終わるのだろうか。
僕はこう考える。
最近、この漫画は、終わる必然も、続ける必然も、等しく喪失した宙吊り状態だった。
その宙吊り状態が、「体質」として定着しつつあった。
それに真っ先に気づいたのは、ほかでもなく、読者だった。
そして、それを作者自身も敏感に感じとったのである。
そう。
この漫画ほど、読者の意向を反映してくれる、もしくは、反映の手続きを身近に感じさせてくれる漫画もなかった。
ジャガーは相互補完的であり、いわば、作者と読者のコミュニケーション遊戯の側面が強かった。
タイトルの題字を読者から募集していたのも最たる例だし、後期に至っては、ネタまで作中に反映してくれる始末だった。
そういうサービス精神の高さゆえだろうか、作品の「体質」まで、読者側に、つまり、庶民の日常そのものに近づいてきてしまった。
結果、幸か不幸か、ある程度の大衆的支持を自動的に獲得できるようになり、
はたまた、悪い面では、作者のやる気の有無や、生理的変化に至るまで、見事に作品に反映されてしまうようにまでなってしまった。
後期のジャガーは、もはや、「作者の生活のバイオリズムを体感する」漫画になっていた。
そもそも、この漫画の、週間少年ジャンプという雑誌上での意義は、どんなものだったか、思い出してみよう。
巻末という固定枠。これは、ニュース番組で例えれば「天気予報」のコーナーであろう。
天気予報とは、どんなコーナーだろうか。それまで、いくら、大量殺人やら、政治的大事件などの、一連のドラマティックなニュースが流れようが、最後の最後には、天気予報という、一種の毒消しによって、日常に目線が戻るのである。実際、どんなニュースよりも、一番等身大な、生活に身近な話題である。ジャガーは、まさに、もっとも身近な「生活事」に近いコーナーを担当していた。
ジャガーは、巻末で、あくまで「ピューと吹いた」のだ。
これは重要なモチーフである。
「笛を吹く」という行為は、小学生に代表される素朴さの象徴であり、癒すことの象徴であり、肩の力を抜かせることであり、もっと踏み込んで言えば、感傷的な風景を喚起させる装置でもあるのだ。
コミックスの表紙の絵の見事さを見ても明らかなように、「懐かしさ」の波及というのも、ジャガーの「売り」の一つだった。
ジャガーの読者は、決して、ギャグだけに誘われてこの作品を読んでいたわけではない。
絵柄や、さりげない漫画的表現に、不思議な癒しや、くすぐりや、寓意や、懐かしさを感じていたのである。
では、作品単体としては、どういう作品だったのだろうか。
ざっくり言えば、初期は、ちゃんとした起承転結を持った優等生なギャグ漫画であり、5、6ページという少ない枚数で、隙のないギャグ漫画を描けることを証明することを目的としていた。
次第に、この形式における作風が確立され、定着した。
実験的戯作やパロディも含め、この形式で出来る可能性はほぼやりつくした観が出てきた。
しばらく中期の「安定期」が続いた後、徐々に、ジャガーの作風に「体質変化」が起こり始めた。
どう変わったか、と言えば、一言で言えば、「ギャグ漫画」から、「風俗観察漫画」「生活観察漫画」へと眼目が移行していったのである。
作者自身の世代の雰囲気、会話、ファッション、それら含めた時代の雰囲気の活写、要するに、「こんな感じの時代だよね」という「ゆるい共感」を狙った作風に変化しだしたのである。
現実の生活リズムと、作品内部の生活のリズムはパラレルに同化しだした。
「漫画の中なのに生きているようなキャラクター」
というよりは、
「漫画の中なのに生活しているようなキャラクター」
とでも言うのがふさわしいような有様である。
ギャグも、あくまで会話ありきであり、その自然な流れの中の一要素として捉えられるようになっていった。
こういうギャグを織り交ぜた会話は日常的にしているだろうな、と読者に思わせる台詞回し、会話のタイミング、ギャグのはずし方など、風俗&生活観察と共に、後期ジャガーの最大の特徴である「軽み」を会得していった。
「軽み」の洗練。
それを、大半の読者は「ギャグの衰退」ととったのである。
そして、「もうやる気がない」と批判した。
もし、作品がやる気がなく見えたのであれば、それは、登場人物たちのやる気のなさであり、転じて、現実世界での若者のやる気のなさの戯画化であるのだから、評価は「うまく時代を捉えている」という、長所に向いてもおかしくなかった。
とにかく、作者は、そういう「軽み」の境地に入りつつあった。
実際、ただコンビニに行く、という過程をだらだら描いても、漫画的価値を生み出せる自信があっただろう。
ジャガーの楽しみ方も、ギャグで腹を満たしていた時期とは違う、いわば「別腹」の楽しみ方に変化していった。
「漫画的密度」はあるのに、「あっさり」しているのだ。
これを読者は「中身がない」とか「ネタ切れ」とか呼んだ。
これ以降、作者は、「手放し運転」をしだした。
どんどんれいの「散歩型漫画」になっていったのである。
ネタにあまり固執しなくなっていった。前述の通り、ネタに固執しなくても、「平均点」が取れるだけの漫画表現があったからだ。
時々、揺れ戻しのように、ストーリーものをやったり、しっかり起承転結のプロットのあるものもやったりしたが、風俗&生活観察性はますます「軽み」を帯びてきて、その「軽み」方面の可能性を、どこまで目指せるか、が目的になっていったのである。
わかりやすい「落ち」を避けだして以来、読者は、「何が正解なのか」をセンスで感じるしかなくなってきた。
笑うべき「ポイント」が、どんどん「高度」になっていった。
自然な会話の一つ一つの「さりげないうまさ」に「味を感じる」という読み方が「正解」になることが多くなった。
こういう、かなり高度な境地にある「笑い」が、読者に届いているのか、いないのか、作者自身も相当不安だったろうと思う。
実際、あまり理解されていなかった。
そして、今回の終了と相成ったわけである。
ところで、この漫画、どのように終わるのだろうか。
この漫画の隠された主題は、なんといっても「ジャガーとピヨ彦のモラトリアムな生活がどう終わるのか」という一点に集約される。
後の登場人物はどうでもいい。問題はこの二人であり、その終わらせ方なのである。
考えてみれば、ジャガーとピヨ彦の関係は奇妙である。
先生と生徒のようでもあるし、ただの親友同士のようでもある。
だが、一番本質的な見方は、「母親と子供」だと思うのである。
それは作中の二人の生活を見れば一目瞭然で、二人は肉親同士のように、お互い「依存」しあっている。
この見立てで考えれば、ピヨ彦(子供)は、いつか、ジャガー(母)から旅立つのは明らかである。
けれど、別れに際して、どちらがつらいかと言えば、明らかに、「母親」であるジャガーの方なのである。
わが子を失うつらさ。
それを内心、ふと感じ取って、ジャガーさんが、ある日、先にピヨ彦の前から忽然と消えてしまう。
そんな「最後」にして欲しいのだが、どうだろうか。
なんといっても、ジャガーさんのモデルは、明らかに「星の王子様」なのだから、そんなラストが妥当なんじゃないかしら、と思う。
ジャガーさんは、ふらりとどこからともなく、やってきたのだ。出生不明なのである(ラスト直前に明かされつつあるが)。
つまり、故郷を探している人なのであって、その手がかりが「笛」、つまり「素朴さ」であり、「気の抜けた感じ」であり、「懐かしさ」であるのだから。
ま、いまさら遅いかもしれないが。
by boku-watashi
| 2010-08-19 22:14
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